「国葬」に思うこと

葬儀とは、故人を悼む気持ちがその根底にある儀式であり、故人を悼む人のために行われる儀式であると思う。

人間社会に存在する組織には、自然発生的に存在する地域社会のような組織と、利益や理念を共有する組織とある。
前者には国・都道府県・市町村や地域の自治会などがあり、その地域に暮らせば自ずと参加する組織として存在している。
後者には企業・政党・宗教団体などがあり、個人の選択の結果として所属する組織として存在している。

葬儀が、故人を悼む気持ちという個人的思いが出発点にあるかぎり、後者のような個人の選択によって所属する組織には団体葬は馴染みやすい。現実に、「社葬」など行われている。ところが、前者の組織には様々な思いの人が所属しており、団体としての葬儀は馴染まない。
「国葬」に限らず、県や市町村単位の葬儀も不自然なものを感じずにはいられない。

今回の安倍元総理の「国葬」問題も、故人を悼む気持ちのある人が、集まって葬儀を行うことが最も相応しい。
「国葬」などと、悼む気持ちのない人も含め葬儀を行おうとする姿勢に、故人を悼む気持ち以上の思惑を感じずにはいられない。

政府は何のために「国葬」でするのか。「国葬」を通じ、市民の思想を自由に制御しようとする政府の姿勢に反対する。
「国葬」はすべきではない。「故人を悼む」か「故人を悼まない」かは、市民の自由であり、政府は個人の心に踏み込むべきではない、
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