コオロギ食を考える

最近、コオロギを食べるという話題が出てきている。この時事通信の記事もその1つである。私はコオロギを食べることはしないと思う。空腹で餓死しそうという極限状態ならともかく、日常生活の中で私はコオロギを食べることはしない。

その理由は3つ。

理由の1番目
食用のコオロギが衛生的に管理された場所で飼育されていたとしても、やはり食べる気はしない。感情として食べたくない。これは論理ではないと思う。いかに衛生的に飼育されていても、「ゴキブリ」は食べたくない。それと同じ気がする。私は素手で、蛾や蝶を捕まえることはできる。(幼虫・イモムシはダメ)蝉やトンボやバッタも素手で捕まえられる。でも、ゴキブリを素手で捕まえたくはない。これは感情であって、論理ではないと思う。

理由の2番目
歴史的「科学」的な理由で私はコオロギを食べることをしない。そもそもなぜ私たちは米を食べるのだろうか?食べられるのだろうか?これは科学的実験の結果により安全性が担保されたから食べているわけではない。私たちが米を食べている理由は、何千年もの長い期間人間が米を食べてきたという「人体実験」の結果を私達が受け入れて、米は安心して食べられるものとして皆が認識しているからだと思う。輸入食品、例えばバナナも私達日本人の食べた期間は長くないものの、熱帯地方では何万年にもおよぶ「人体実験」の結果安全が担保されているのだと思う。しかし、「コオロギ」はその「人体実験」が済んでいない。短期的な影響は実験すれば分かるかもしれないが、長期的影響が解るとは思えない。例えば、植物の有機肥料にするとか、魚の養殖用の餌の一部にするところが限界ではないか。野生の魚は様々なものを食べているのだから、それは許容されると思う。
コオロギを食べる前に、食品ロスを減らす取り組みこそ求められる。

理由の3番目
コオロギ食が問題になるとき、食用コオロギの価格は低く抑えられるのだろう。もし、食用コオロギが高価なものであるならば、それは単にゲテモノ趣味の話である。普通の人は食べずに済むからである。しかし、現代社会は格差の大きい社会であり、その中で食用コオロギが話題となっている。食用コオロギは安価なものとして登場している。既に、「ドライクリケット」という名前で、食品材料として含まれている場合もあると報告されている。格差社会に安価な食用コオロギが出てくれば、「富裕層は牛からたんぱく質を取り、貧乏人は食用コオロギからたんぱく質を取る」という社会が現れてくる。社会制度の中で、一部の人々にコオロギ食が強要させる。そういう社会の在り方はおかしいと考えている。

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